普段何気なく歩いている歩道。その歩道と車道との間に側溝があることはご存知だろうか。決して目立つわけではないが、安全を確保する上でなくてはならないものだ。その側溝で世界初の製品を開発した企業がある。アーボ株式会社だ。3代目社長、杉村和敬が考えるもの作りの精神とは。叩き上げブランディングプロデューサー安藤竜二が切り込む。

安藤竜二(以下安藤) まずは創業の歴史から教えていただけますか。

杉村和敬(以下杉村) もともと父は関西の私鉄の電気技師でした。その同僚が岐阜県へUターンする際、一緒に来ないかと誘ったそうです。その会社で3、4年働いた後、昭和43年に父を含む3人の共同経営でヒューム管製造の会社を創業しました。ちょうど高度経済成長と重なり、ヒューム管が飛ぶように売れたそうです。そして、ヒューム管のバリエーションを増やそうと暖簾分けのようなかたちで、昭和48年に谷汲村(現揖斐川町)で父の杉村喬彬が当社前身の中日コンクリートを創業しました。全く関係のない職種からこういったご縁があって、創業するに至ったわけです。

安藤 創業当初は何を製造されていたのですか。

杉村 ヒューム管です。それが、創業後間もなくオイルショックに見舞われ、公共事業に急ブレーキがかかり、突如ヒューム管が売れなくなってしまいました。創業当時は1年のうちの2ヵ月間を操業停止にせざるを得ない状況でした。このままではいけないと、愛知岐阜三重に立地している大手5社を含む16社で中部ヒューム管協同組合を設立し、何とかこの難局を乗り越えたそうです。これがきっかけで、ヒューム管に頼るのではなく、持っている技術を使って何か出来ないかと独自製品の模索が始まりました。そして、見つけたのが箱形ヒューム管だったのです。

安藤 順風満帆な船出ではなかったわけですね。箱形ヒューム管とはどういうものですか。

杉村 九州のメーカーが建設局と共同で開発した道路用の側溝製品です。父がその工場へ見学に行った際、遠心力製法で製造する箱形ヒューム管を見て、モータリゼーションの時代が来るからとライセンス契約をし製造を開始しました。当時この地域の側溝は、建設省(現国土交通省)の標準設計に則って全て現場打ちコンクリートで作っていました。丈夫な物を作るために分厚くする必要があった為、かなり手間のかかる仕事なのですが、それが当たり前だったのです。しかし、九州で始まった新技術の箱形ヒューム管は、工場で作って現場で並べる手法。それに興味を持ち、この地域でも広めたいという思いから始めました。

安藤 それまでの下水管から道路の側溝へと変わったと。新しい物を作るのには苦労もあったのではないですか。

杉村 かなり苦労しました。今までは丸い下水用でしたが、箱形は道路に使用するもので、道路の設計者に採用してもらうところから始めなければならない。ちょうどその頃の昭和57年に私は入社したのですが、製造・経理を経験した後に、当時の営業3人とその市場を作り上げていく仕事をしていました。ゼロの市場に対して切り込んでいくわけですから、採用してもらった時の喜びは一入でしたね。大変でしたけど毎日ワクワクもしていましたし、チャレンジして開拓していくのは楽しかったです。それが出来たのも、大学を出てゼネコンで現場監督を経験したからだと思います。現場には職人がやる仕事から施工図、積算までいろいろあるので、様々な職種の言葉が分かるようになりましたから。

安藤 現場上がりの経験が活かされたわけですね。その後は順調だったのですか。

杉村 平成4年ぐらいまでは順調でした。箱形という商品の独自性を打ち出し、自分たちがこの製品のパイオニアなのだという意識を持つために平成2年に社名を『アーボ』へと変更しました。アーボ(Ahbo)とは、アンビシャス(Ambitious)、ハピネス(Happiness)、ビューティー(Beauty)、オリジナリティ(Originality)という美と幸福と創造を熱望しようと言う考え方からきています。人の幸福を作りましょう。みんなで幸せになりましょう。やるからには清々堂々とやりましょう。独自の考えや方法で新しいことに挑戦しましょう。そして、これらを常に熱望していこうという意味です。変更後、営業マンが行く先々で社名の話をするので、いつの間にか箱形ヒューム管が『アーボ』と呼ばれるようになりました。これはうれしかったですね。父は、その社名変更に合わせて引退したのですが、以前に海外で見たバイコン製法を研究しなさいという宿題を私に出しました。父は、ヒューム管のスラッジ(へどろ)が出るところが好きではありませんでした。そんな時、ヨーロッパの工場へ視察に行く機会があり、そこで環境汚染物も出ず高強度なバイコン製法に目が留まったのです。当時は環境問題が叫ばれ始めた頃で、弊社もそれに向き合う時期でした。そこで、平成4年にデンマークからピータースホープの機械を購入し、バイコン製法を実験的に始めたのです。

安藤 時代背景に沿った次なる一手を打ったわけですね。

杉村 はい。専務になった私は、今バイコン製法で主に作られているのが台付管だから、まずはそれを作ろうと父に話したら、既にあるものは作らなくてもいい。ウチは箱形が大事。これが出来ないと意味がない。と言われ、チャレンジが始まりました。試作を繰り返しても上手くできず、1年ほど不良品を作り続けましたね。最初は50本に1本良品が出来るかどうかでしたので、本当に辛かったです。それでも諦めずに作り続け、平成5年に何とかサマになってきました。しかもこの技術、実はその頃、世界初だったのです。

安藤 それはすごい。バイコン製法の強みとは何ですか。

杉村 バイコン製法は既に100年の歴史があり、ヨーロッパでは当たり前の技術です。振動(VIBRATION)と圧縮(COMPRESSION)の作用によってコンクリートを締固め、成型直後に型枠を取り外してできるコンクリート製品で特殊な混和剤を用いるのではなく、コンクリート中の骨材容積が可能な限り多くなるように骨材の粒度を調整し、コンクリートを強力な振動と重力の相乗効果によって締固め、圧縮し成型するため高強度。今までのヒューム管を凌駕する強度、耐久性を持っています。また、スラッジ(産業廃棄物)が出ず、セメント使用量を抑えられ、蒸気養生もしないため、CO2排出量を抑えられる環境にも優しい製法なのですが、表面がざらついてしまう。それを解決するため、展示会を開いてバイコン製法の強みを必死に説明しました。特に表面のザラザラを知ってもらうことに力を入れて。でも「アーボさんがそこまで言うなら」と、今までの技術力を知っている方が多かったのもあって、すんなり進みました。この時は今までちゃんとやってきて良かったと思いました。

安藤 今まで培ってきた信頼と実績は強みですよね。最初はどこに採用されたのですか。

杉村 近鉄揖斐駅のロータリーに入る国道との連結部分です。地元だからということで使っていただいたと思います。その後は続きませんでした。当時は丸いものが当たり前でしたので、箱形を見ても「いい商品だね。でも採用するには上の認可が必要だから」で終わってしまう。地元で営業を続けていても駄目だと思い、建設省へ持っていったら今度は「本当に大丈夫なの?」と言われました。そこで、箱形の強さと丈夫さを様々な切り口で検証・証明して理解していただき、少しずつ依頼が入るようになりました。全てが新しいことばかりでしたので最良の方法を探すため工夫する必要があったのです。

安藤 いわゆる営業ノウハウをイチから作ったわけですね。

杉村 耐久性試験を行うなど手探りで進めました。設計者を説得するためにエビデンスを作ったはいいが、初めの採用は変更が主でしたから、注文がくるのは年度末ギリギリで時間がない。それなのに設計変更には図面が必要。クリアするには…。と、頭をフル回転させて対応していくうちにノウハウが出来たと思います。当時はこの製品をとにかく広めたいという一心で取り組んでいましたね。

安藤 素晴らしい。そして、バイコン製法での箱形の製造へ移行されたと。

杉村 世界が認めている技術の製品を日本に広めたいですから。そのバイコン製法での製造も平成7年にようやく安定してきたので、平成9年にオーストリアのシュッルセルバウアー社の全自動機械を導入して10年から量産化を始め、2万トン作れるようになりました。更に1万トン必要なので、平成12年に最後の遠心力製法の機械を取り外し、デンマークのベトダン社の機械に入れ替え完全移行。ついにバイコン製法専業メーカーになったのです。