静岡県牧之原市を拠点に、近隣の5市1町で「葬儀社対応安心度」(ダイヤモンド社調べ)ナンバーワンと評価される企業がある。静岡県内でも堂々4位にランクされる株式会社うおともだ。地域を愛し、地域に育てられてきたうおともは、お客様に求められていく中で、自慢の料理を核に、柔軟に業態を変化させてきた。2010年に社長に就任した山下英記の意気込みを、「サムライ日本プロジェクト」の安藤竜二が訊いた。

安藤竜二(以下安藤) うおともさんって創業から冠婚葬祭事業をやっていたんですか?

山下英記(以下山下) もともとは牧之原で私の祖父母が日用雑貨やお菓子などを売っていたお店だったんです。そこに私の父(現会長)が板前修業から帰ってきたことで、1969年、魚屋「魚友」が開業しました。名前の由来は、友が集まる魚屋、人が寄り合う場所にしたいという想いから。当時、私も子供ながらに、にぎやかなお店だったのを記憶しています。そのうちにお客様のご要望から、仕出しをやらせていただくようになりました。「魚友さんは刺身の切り身が大きい」と評判だったそうです。さらに、宴会場として使わせてほしいというご要望が増えてきたことで、本格的な宴会場も設立。現在本社がある場所に30人部屋を3部屋、20人部屋を2部屋。さらにそこで結婚式をやりたいという声にもお応えしていきました。

 83年に企業化、しかし父は「社長」というよりは「親方」。調理場で刺身を切りながら、ビデオカメラで会場の様子を見て、スタッフに配膳などの指示を出していたそうです。「会社」という雰囲気はなく、5、6人で切り盛りしていました。

安藤 当時からビデオカメラを駆使していたとは驚きました! 現会長は企業化しても包丁を置かなかったんですね。

山下 職人気質であると同時に、お客様には細かいところまで気を配っていました。結婚式の演出には、ドライアイスやスポットライトを使ったりと、新しいものはどんどん取り入れて。私もよく演出の手伝いをしていました。

 この頃、私の叔父がマスターとなり、海岸線沿いに「喫茶ウオトモ」を開店しました。昼は喫茶店、夜はバーといった業態で、地元の若者が集まる場所。叔父は皆から親しまれるキャラクターで、お店にくる若い男女の恋のキューピット役でした。叔父が縁を結んだカップルの結婚式はやはり魚友で。結婚式の回数が増えるにあたり、宴会場ではニーズに応えられないということで、洋館を建て、本格的に婚礼事業もスタート。しかし、実際にはそれを始めるだけの資金がなく、取引業者20社による「魚友会」を発足(現在ではおよそ80社に)、皆さんから出資していただいての船出でした。挙式をされた方からは「何でも応えてくれる結婚式場」と好評で、1会場のみでしたが、ピーク時には年間200組もの挙式をさせていただきました。

安藤 この当時は「うおとも=結婚式場」というイメージだったんですね。

山下 婚礼事業が軌道に乗るのと同時に、社内では様々なイベントを行う機運が高まっていた時期でした。特に叔父は器用な人で、野外にステージを組み、今でいう婚活パーティーのようなことをやったり、ディスコパーティーを開催したり。訳あって結婚式をあげられなかったカップルを対象に、合同結婚式を開催したこともありました。現在も年2回定期的に行っているお笑いコンサートや、障害を持った方に結婚式の食事や雰囲気を味わっていただくための招待イベントはこの頃から続いているものです。

 また、当時「お客さんが喜ぶことを」とスタッフが考え、数百もの言葉の中から選んだ、「笑顔・清潔・新鮮・満足・家庭的サービス、以上は無料です」という「うおとも特選メニュー」は現在でも理念として掲げている言葉です。

安藤 お客様に喜んでいただきたいという純粋な想いは、昔からブレることがなかったんですね。しかし、婚礼事業が順調だったのになぜ葬祭事業に?

山下 仕出しのお仕事で、葬儀でのお弁当を卸すという接点はもともとありました。結婚式業界はホテルウェディングが台頭し、お客様が徐々に都会へ流出する時代に。婚礼事業で培った配膳や接客サービスと人材を活かすには、と父は前々から葬祭事業への進出を考えていたようです。しかし、当時結婚式のイメージが強かったうおともで、その話はタブー。父が密かに話を進め、95年に平成葬祭の名前で葬祭事業を開始しました。