「お客様第一主義」を行動指針に掲げ、名古屋市で店舗の企画、デザイン、賃貸マンション管理、リフォーム等、「生活空間」に関わる様々な提案を行う株式会社東海装美。代表の可知久始は23歳で同社を立ち上げ、そのリーダーシップで、多くの協力業者とともに今日までの成長を支えてきた。彼の中に息づく信念とは何か。サムライ日本プロジェクトの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 可知社長は子供の頃はどのように育ったのですか?

可知久始(以下可知) 愛知県の蟹江町で育ち、一人っ子だったので兄弟と遊ぶ時間がなかった代わりに、母の真似をして、よく部屋の模様替えをしていました。また仕事一筋だった親父の背中を見て、商売ごっこをして遊ぶことも。これら両親から受け継いだものが、今の仕事に繋がっているのかもしれませんね。
 小学6年生のある日、父がくも膜下出血で倒れてしまいました。社会復帰に時間を要したことがあり、私は中学生の頃には喫茶店でアルバイトを始めました。オーナーが私に何でも任せてくれたので、飲食店の楽しさを感じ、将来はその道に進みたいと思ったのですが、会社勤めを望んだ母の想いもあり、高校卒業の翌日からインテリアを扱う商社に勤めました。

安藤 なぜインテリアを選んだんですか?

可知 実はインテリアという響きがカッコいいなと思ったという単純な理由だったんですよ(苦笑)。最初の1年間は倉庫管理・配達を任され、その後、椅子の張り地の営業に配属。名古屋や三河地方の得意先への提案営業や、新規の飛び込み営業まで。人とのコミュニケーション方法を学びながら、自分の提案を認めていただけることにとてもやりがいを感じましたね。しかし、業績が上がっていく中で、当時の私は「年功序列」の給与に疑問を感じました。独立していく同僚に触発されながら、「いつかは私も」と心に情熱を燃やしていました。別にバイトで1日1万円稼ぐ生活だっていいと腹を括り、「トップになる」という親父の夢を私が叶えるんだ、と23歳で退職しました。

 しかし、すぐに独立はできず、先輩の経営する保険会社で建築の部署を作ってもらい、大手住宅会社の下請け企業さんの下請けとして、リフォーム提案のお手伝いなどをしていました。新しい業界で分からないことばかりでしたが「何でもやります!」と、勉強の毎日を過ごし、社長からは経営の勉強もさせていただきました。

 そして23歳と10ヶ月の時、周りの心配の声を押し切って、実家の6畳の自分の部屋を事務所に独立。最初の仕事は屋号を決めること。若さ故に、誰も相手にしてくれないのではと危惧し、古くからありそうな名前にしよう、と。また「日本」は大きすぎるし、「名古屋」では小さい、そこで「東海」だと。「東海装美」はそうやって名づけられました。

 仕事ではゼネコンの下請けをやったり、大工さんの下に入ったりと色々な人にお世話になりました。「二代目か?」と言われれば「ハイ!」と答えていましたね。不動産の仲介会社の社長に気に入っていただき、アパートの部屋の原状回復の仕事を多く任せていただくようになりました。その社長の勧めもあり、平成6年、名古屋・大須に事務所を移転。その際、「有限会社東海装美」として法人化しました。2年ほどは1人でやり、「今日はいくら稼いだから、いくら呑もう」という生活を送っていましたね。

 27歳くらいで、住宅リフォームの仕事が増え始め、いよいよ1人では首が回らなくなってきて、社員を入れ始めました。それまであまり「経営」というものに興味を持たずにやってきたのですが、この当時、青年会議所(JC)に誘われたことで、理念や行動方針を持つことの大事さなどを学び、経営と向き合うきっかけになりました。表面だけ取り繕うのではなく、中身が伴わないとダメだと。人との出会いも含め、非常に多くのものを青年会議所から得ることができました。

安藤 店装を始めたきっかけは?

可知 名古屋のライフスタイルショップ「リアルスタイル」の鶴田さんから声をお掛けいただき、リアルスタイル名古屋店のオープンに伴い、初の店舗内装を任せていただきました。ある日お店に行くと、人だかりができており、なんと名古屋市の「都市景観賞」を受賞されたとのこと。それまで店装には全く興味がなかったのですが、「お店に人が入ってくる」という情景を目の当たりにし、住宅にはない感動を覚えました。そこにはクライアントとエンドユーザーという2種類のお客様がいる、これは面白いと思いましたね。もちろん、店装においては素人でしたが、そこで働く人やお客様の気持ちを想像し、おせっかいなまでの提案をすること、施工だけでなく管理にまで徹底していくこと、これが大事なのではないかと思いました。