日本のものづくりを支えてきた町工場。これまで大手メーカーの下請け部品を作ってきたが、リーマンショックで注文は激減。そんな中、長年培った技術を生かしてオリジナル製品を開発し、ヒットを飛ばす企業が出てきた。田中金属製作所もそのひとつだ。様々な場所で引っ張りだこのオリジナルシャワーヘッドを開発した田中金属製作所の社長、田中和広に叩き上げブランディングプロデューサー安藤竜二が迫る。

安藤竜二(以下安藤) まずは創業の歴史から教えていただけますか。

田中和広(以下田中) 1965年に父、田中昭雄が借家にて旋盤機1台で創業しました。当時は、現在工場のある場所までの道がなく、工場は5キロメートルほど南にありましたが、祖父の「死んだら生まれ故郷に埋めてくれ。」という言葉がきっかけで一念発起し、現在の場所へ移転したのです。当時はお金もなく、木造の小さな工場で買ってきた中古の機械を修理して使っていました。そこから少しずつ広げていったのです。

安藤 当時は主に何を作られていたのですか。

田中 岐阜県山県市は水栓バルブ発祥の地と呼ばれています。バルブなどの水栓金具で国内出荷額の約40%程を担う地域で、田中金属製作所もこの地域の工場ですから、他と同じく大手メーカーさんの下請けとして主に水栓バルブなどの真鍮部品を作っていました。

安藤 地場産業なのですね。社長はいつから田中金属製作所で働き始めたのですか。

田中 私が田中金属製作所で働き始めたのは21歳からです。実は小学校の頃いじめにあったことがありました。その時のクラスメートと同じ高校へ通うのが嫌で、父の仕事を継ぐため早く技術を身に着けたいという理由を作って、高校へは進学せず、父の工場の得意先に就職しました。その当時のくやしい思いが、今の私の負けず嫌いの源泉となったのかもしれません。そして、もう二度と負けられないと心に誓って、必死にそこで加工技術を覚えました。先輩に親身になって教えていただいたのもあり、順調に覚えられたと思います。そして、5年間務めたのち家業に入りました。

安藤 入社当時はどのような仕事をされていたのですか。

田中 当時の業績は順調でしたが、孫請けの仕事のため、元請会社が値決めをしていました。私は値決めを自分の責任で行い、商いをしたいと考えていましたので、「メーカーと直接取引すること」を将来の目標に決めたのです。そのためには、どうしても設備投資を行う必要があったのですが、父は倹約家で中古機械を修理して使うような人でしたから、 私の事業スタイルは綱渡りに映ったと思います。それでも父とぶつかりながら、強引に設備投資をしていきました。それだけに失敗は絶対に許されない。その強い気持ちをもって昼夜仕事に邁進しました。

安藤 自分を信じて努力されたのですね。その成果はいかがでした。

田中 まずは以前お世話になった得意先の仕事を請けながら、新規顧客獲得に励みました 。すると、少しずつですが受注が取れるようになってきたのです。いろいろな方 との出会いが増えていくうち、ついに念願だった水栓メーカーから直接取引ができるようになりました。しかし、取引が始まったメーカーは得意先が受注していた会社でもあったため、得意先からは取引停止に。しかし、業績は右肩上がりになっていったのです。そんなある日、水道料金の削減をしたいという会社に出会いました。その際、かなり高額な節水器具が流通していたことを知り、適正価格で性能の良い節水器具を作れば必ず売れるという思いから節水事業をスタートしました。さらに、節水は企業も一般家庭も望んでいるはずだから、どちらでも使えるものを作らなければならない。今までは下請けだけでしたが、この暴利な仕組みを変えたいという思いもあり、メーカーとして企業から一般まで網羅できるもの作りをするため、製品の開発に着手することに決めたのです。

安藤 どんな製品を作られたのですか。

田中 『アリアミスト』という節水シャワーヘッドです。はじめは、シャワーヘッドとホースを繋げる節水アダプターを作ったのですが、それを持って中小企業総合展に単身乗り込んだ際、東急ハンズさんなどからこのアダプターを製品化できませんか。と提案を受けたため、東急ハンズさんに置くことを前提に節水シャワーヘッドを開発しました。平成17年5月から店頭に並んだのですが、始めはなかなか思うように売れませんでした。しかし 、安くて性能が良いという自負はありましたので、同時にシティホテルなどへも営業に行きました。今ではワシントンホテルさん、ルートインホテルズさん 、星野リゾートさんなど多くのホテルで弊社の節水シャワーヘッドが使われています。

安藤 ホテルにとって格好の製品だったわけですね。他にはどこで販売されたのですか。

田中 平成19年から20年にかけて、ご縁があってショップチャンネルさんで販売しました。20年11月に1年のアニバーサリーとして少し価格を下げて販売した際、1日に1万5000本も売れたため、平成20年も継続することに決まったのですが、ベンダーの失態によって、全て白紙になってしまったのです。さらに悪いことは重なり、長く取引をしてきた水栓メーカーが内製化され仕事が激減。売り上げは10分の1にまで落ち込みました。