日本には、世界に誇れる高い技術を持った会社が多く存在する。光学機器や精密機器の製造を行う「株式会社ニシカワ」もその1つである。昭和25年(1950年)の創業以来、大手カメラメーカーの下請けとして成長し、現在では山形県に2つの工場を持つに至る。光学測定器などの精密機器から、トレーラーに一つしか載らない大物鋳造部品(8m×4m)まで、加工の設計・加工・塗装など一貫生産できる仕組みを持つ。「後工程はお客様」の発想で確かな技術力と精度を保持する技能集団でもある彼らが、「大物精密加工屋」として、新たな市場に勝負をしかけていく。日本の技術のトップリーダーを目指す西川俊行に、叩き上げブランディングプロデューサーの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) ニシカワさんの歴史について教えてください。

西川俊行(以下西川) 昭和25年(1950年)父である西川吉雄が東京都文京区に「株式会社西川製作所」として会社を創業したのが始まりです。もともと祖父も板金工場を営んでいたのですが、戦争から帰ってきた父がサラリーマンではなく何か商売をやろうと考え、祖父の工場を会社組織にしたのです。当時は、車の板金を中心に、徐々に大手カメラメーカーの下請けとして稼動し始めました。その後、本社を埼玉県戸田市に移したのち、建築業が好調であった時代、測量器の金属格納箱の製作を一手に引き受けていたため、それを一括生産できる工場を昭和45年(1970年)、山形県に三川工場を設立します。平成2年(1990年)には、本社では手狭になった大型の半導体の製造装置の部品加工をするため、同じく山形県に鶴岡工場を設立しました。全ての生産拠点を山形県に移管したのです。現在の「株式会社ニシカワ」に社名を変更したのは平成3年(1991年)です。

安藤 西川社長が入社するきっかけは何だったのでしょうか。

西川 家と工場が隣接していたため、家業を見て育ちました。高校時代から現場の仕事を手伝っていたのですが、常に現場で率先し休みなく働く父の背中を見て「父を助けたい」と強く思うようになりました。大学は電子工学科に進み、技術系商社に入社するのですが、4年後の昭和51年(1976年)、父が急逝したのです。不況のあおりを受け、売上げの低迷と借金苦の中、会社自体の存続も危ぶまれていました。ただ、父の会社が潰れたら一生後悔するという念から、26歳で株式会社西川製作所(当時)に入社したのです。

安藤 順風満帆に仕事がスタートしたわけではなさそうですね。

西川 入社当初、会社を維持するための売上確保がうまくいかず、苦しい思いをしました。当時の社員のモラル・レベルも低く、会社に怒鳴り込んでくるお客様がいたことも事実です。「なぜこんな会社を継いだのか」と嘆くこともありましたが、これを使命ととらえ、徹底的な改革に動き出しました。個人のスキルに偏ることなく会社の仕組みとして構築するなど、経営の健全化を推進していきました。徐々に会社の動きを前向きにとらえてもらい、カメラが花形だった昭和53年(1978年)、大手カメラメーカーからカメラの仕事を受注することができ、再建することができました。さらに、CIの導入、企業理念の策定も行いました。現在では、企業理念・社是・行動指針は社員全員で考え、大切に守り、社内の表彰や積極的な意見交換・勉強会の実施など、全員が経営の視点に立ってお客様と接することが出来るようになりました。私自身が代表取締役社長に就任するのは平成13年(2001年)のことです。

安藤 西川社長が旧態依然としていた会社を、先陣切って業務改革を行ったのですね。そもそもなぜ山形に工場を作ったのですか。。

西川 当時、山形県酒田市の職業訓練校から人が来ていたこともあり、様々なご縁がつながり、山形県に最初に三川工場、次いで鶴岡工場を立ち上げました。山形には昔の日本が残っている気がします。人情もあり、勤勉さ、そして忍耐力があり、日本のものづくりの技術を支えてくれる風土だと思います。