昭和54年(1979年)愛知県の美容師向けの卸の専売業者として名古屋で産声をあげた「ナゴヤ美容株式会社」自社のフィルターを通し確かなものだけを美容室に卸すというスタンスで全国商社に転身。現社長である坂田武則は先代より受け継いだ会社を、時代に合わせ営業手法を変え、自社商品の開発に取り組み、顧客を伸ばしている。そして、平成24年(2012年)冬、待望の『Clé de Nouveau(クレド ヌーヴォー)』を生み出した坂田武則に、サムライ日本プロジェクトの安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) ナゴヤ美容さんの歴史について教えてください。

坂田武則(以下坂田) 私の父である先代:坂田栄実が昭和54年(1979年)に名古屋市天白区に設立しました。22歳で美容業界に飛び込み、大阪の製造メーカーの新規開拓営業として全国を飛び回っていました。27歳の時に名古屋に転勤、その後社内の仲間と共同経営という形で販売会社を立ち上げ、36歳の時に完全独立。愛知県の美容室を中心に美容室専売商品の卸売販売を開始したことが始まりです。

安藤 愛知県を中心に販売していたナゴヤ美容が、今では全国へ展開しているそうですね。ナゴヤ美容の転機は何だったのでしょう。

坂田 昭和63年(1988年)、当時は画期的だった、パーマと毛染めが同日にできる商品を販売したことがきっかけです。一美容室で使われていた商材を商品化するために、資金を集め、商品化。3年で8億円の売上を作るまでのヒット商品を世に送りだしました。良い商品があれば全国どこへでも駆けつけ、本当に良いものであれば、世に出る為の支援をして販売する「人の役に立つ仕事」というナゴヤ美容の原点がここにあります。

安藤 いわゆる「目利き」ですね。坂田社長はいつからこの仕事を始めたのですか。

坂田 私がこの仕事に就いたのが24歳の時でした。高校卒業し、カナダへ。2年後、パイロットの資格を取るため、アメリカへ渡りました。無事、パイロットの免許を取ったのですが、やはり家業を継ぐことを決意し、美容の本場であるフランスへ渡りました。パリでは、多くの美容師に出会い、美に対する意識の高さ・勉強熱心さ、そして同じ年の人が生き方を真剣に考えていることを身近に感じ、自分自身の甘さが露呈した気がしました。その後日本に帰り、営業職から、ナゴヤ美容での仕事がスタートしました。

安藤 カナダ、アメリカ、フランスで感性の探求の旅があり、それが今の仕事につながっているのですね。

坂田 世界を見ている人たちは、個性が強く、「オンリーワン」「オリジナル」を目指していました。お腹を空かしても勉強に、美容にお金を投じており、とても刺激を受けたのです。私たちのビジネスに置き換えたとき、美容業界の「オンリーワン」「オリジナル」を目指そうと思ったのです。

安藤 他社にはまねできないことを始めたのですね。最初の取り組みは何だったのでしょう。

坂田 時代に合わせ営業スタイルを変えていかなければならないと、「B to B」という通販型の営業スタイルに変更しました。時代と共に、スタッフの数もギリギリで運営している美容室が多くなってきました。その中、営業で回っても、仕事の邪魔をしてしまう、効率が悪いとマイナス面が多くなってきたのです。そこで考えたのが、DM発送による営業でした。1日美容室に詰めている美容師さんにはどんな情報が必要なのか考え、メーカーの商材をナゴヤ美容なりの勉強と解釈を入れ、独自の情報発信をしていくことにしたのです。ナゴヤ美容というフィルターを通し、情報・商材を美容室へお届けする、それが私達の本来の仕事ではないか、と気づいたのです。

安藤 時代を敏感に受け止め、美容室のことを考えての決断だったのですね。メーカーと美容室との「翻訳者」として橋渡しをするようなビジネスに社長が変えていったのですね。

坂田 自社PB商品を開発しました。きっかけは、美容師さんの手荒れのひどさに愕然としたことです。肌が弱い、安心して使えるものがない、などお客様の多くも悩みを抱えていることが分かりました。そこで、ナゴヤ美容が出した結論は、「天然成分を主とした商品が必要、合成成分が多いものをなくしていこう」ということでした。でも、それに見合う商材がない、だったら自分たちで作っていこう、と。そして、平成17年(2005年)、初のPB商品『エコミィーシャンプー』を、次いで平成24年(2012年)、第2弾である業務用トリートメント『B×Oヘアーローション』を販売するに至りました。