今や国民食となったラーメン。数多くある人気店の中でも特に有名な『博多一風堂』の大将直々に、名古屋のライバルと認められた男がいる。『長浜ラーメン一番軒』の総大将、三木規彰だ。名古屋にとんこつラーメン文化を作り、2016年3月には大名古屋ビルヂング内に旗艦店もオープン。いま勢いのある三木の本気に、叩き上げブランディングプロデューサー安藤竜二が迫る。

安藤竜二 (以下安藤) 三木さんはなぜラーメン屋を目指されたのですか。

三木規彰(以下三木) 私は三重県の多度町(現桑名市)で生まれ育ちました。父は自営業でしたが、私が小学生の頃に倒産。どんどん貧しくなっていき、子ども心に貧乏の大変さを実感しました。生きていくために中学生からアルバイトを始め、高校卒業後にホテル業界へ就職したのですが、1年ほどで退職。当時は、お金を貯めなければという思いが強く、給料の高い仕事を転々としていました。そして水商売へ行き着き、20歳で店長に。充分なお給料をいただいていたのですが、昼間の世界で好きな麺類をお客様に提供したいと思うようになり、いろいろ食べ歩いていました。そして、あるラーメン屋さんが私の人生を決めたのです。21歳の時でした。
        
安藤 そのお店は人生を決める程おいしかったのですね。

三木 はい。ラーメン屋さんで行列?と思い並び、食べたら、とんこつラーメンの旨さに衝撃が走りました。「どうしてもこのラーメンを作りたい」。すぐに水商売を辞め、そのラーメン屋さんへ行き、アルバイトを始めました。
 半年間、がむしゃらに働きました。それが認められ、店長の推薦で遂に就職。「これでラーメン屋をやれるぞ」と思ったのですが、スープすらちゃんと作れない。そこで店長にお願いし、仕込みだけで雇っているベテランお爺さんの元で修業させていただくことに。とにかく誰にも負けたくない。その気持ちを持ち続けていました。すると店長になり、売上げのあまり良くない店を建て直す役割を担うまでになったのです。

安藤 強い気持ちを持ち、結果も出す。素晴らしいですね。そして独立されたのですね。

三木 目標にしていた1000万円が29歳で貯まり、独立を決意しました。開店する場所を探していて見つかったのは尾張旭市。名古屋ではありませんでしたが、現地へ行き、気に入り、すぐ契約。そして、たまたま隣の隣を工事していた方に建築会社を紹介していただき、見積もりを依頼。しかし、予算ギリギリでしたので「お金はないですが、どうしてもラーメンを作ってみんなを喜ばせたいんです」と話すと「面白い人やね。一緒に店を作るか」と言ってくださり、開業資金を節約するために荷物運びや壁塗りなどを手伝いました。そして、遂に1998年。わずか13坪15席のラーメン屋をオープンすることができたのです。30歳の時でした。

安藤 手伝うことでお店に愛着も湧いたと思います。オープンから順調でしたか。

三木 うまくいきませんでした。修行していた店が常に大行列だったのは、私の力じゃなくお店のブランドと実績、お客様から信頼を得ていたからだと痛感しました。
 また、スープに納得できない日は閉めていました。開いたり閉まったりする店と近所で有名になり、売上げも1日10万円ほどあったのですが、おいしいと言っていただいても自分の心が許さない。目指したのは名古屋で一番の店。もっとラーメンを知らなければと思い、オープン4ヵ月で店を閉め、「ラーメンの修業に行きます」と張り紙し、とんこつラーメンの聖地、博多へ行きました。
 
安藤 一旦店を閉める決断はなかなか出来ない。それほど本気だったのですね。博多ではどちらで修業をされたのですか。

三木 空港に着くと、とんこつの匂いに気持ちが昂りました。そして50軒食べ歩いて決めたのが、長浜通り屋台街の入口にあった行列屋台。恰幅のいい白髪の大将に「ここで働かせて下さい」とお願いしたのですが、「人は募集しとらんけん」と一蹴。それでも諦めきれず次の日も行き、「ラーメンの技術を伸ばして、お客様に旨いと言わせたい。この味が気に入ったので大将の味を学ばせてほしい。お金なんていりません! 無給で構いません! ラーメンに人生をかけているんです」と本気で話すと「分かった。いつでもきんしゃい」と言ってくださり、すぐに屋台から徒歩40分のアパートに引っ越して無給で修業しました。
 屋台での仕事はかなり大変でしたが、ココにいられるだけで幸せでした。最初はひたすら皿洗い。徐々にラーメンも作らせていただけるようになり、スープは大将の背中を見て必死で覚えました。そして1年半が経つ頃、大将から「もう一人前にやれる」とお墨付きをいただいたので、翌月、自分の店に戻りました。