コシヒカリの産地として知られる新潟・魚沼。ここに有機農法にこだわる米農家がある。その名も株式会社ごはん。代表の大島知美は、自身を「百姓」と名乗り、現場(田んぼ)に立って、土にまみれ、稲の葉をかじる。有機農法への熱い想いに「サムライ日本プロジェクト」の安藤竜二が迫った。

安藤竜二(以下安藤) 株式会社ごはんのある中魚沼郡津南町ってどんなところなんですか?

大島知美(以下大島) 津南は日本有数の河岸段丘(※1)があることで有名です。自然に恵まれ、環境省選定の名水百選「龍ヶ窪の水」があり、水質・土質・気候ともに米作りに最適な土地柄なんですよ。積雪4メートルという豪雪地帯でもありますが、この雪に含まれたミネラルが土壌に浸透し、美味しいお米を作る原点になっています。事実、雪が多かった年ほどお米は美味しいんですよ。

安藤 ご実家はもともと農家だったんですか?

大島 もともと200年以上続く農家で、明治時代くらいまで、田んぼの枚数では魚沼一を誇っていたそうです。私は跡とり息子でしたが、農業高校は卒業したものの、当時は跡を継ぎたいなんて、これっぽっちも思っていませんでした。高校時代はやんちゃばかりして、卒業も危ぶまれたほどだったんですよ(苦笑)

 卒業後、一度は就農し、夏は米作り、冬は愛知県に出稼ぎ、という生活を送っていましたが、それも2年でイヤになり、逃亡。十日町でバーテンダーをやったりしながら、アパートを転々として逃げ回っていました。しかしある日、叔父に説得され、ついに年貢の納め時となりました。

安藤 今でこそ「燃える農家」の大島さんですが、当初は決して高い志があった訳ではなかった、と。

大島 当時22歳で、その後2年ほど、親父と一緒に百姓をやった後、私が主導で米作りを始めました。儲かる農業を、と考えていた私は、とにかく収量を上げることを最優先にしました。そのために稲作理論を勉強し、10アール(1アール=10メートル×10メートル)で9俵(1俵=60キログラム)収穫していたところを、12俵収穫することや、肥料の価格も安けりゃいい、味は二の次、という発想でした。

 こうやって収量重視の米作りをした結果、土壌は痩せてしまい、再び肥えた土壌に戻すためには、膨大な時間がかかることを後で知りました。私はこの方法で儲かるぞと喜んでいましたが、実はその代償に、今まで代々、冬には家畜の堆肥を田んぼに投入し、土を育て、継続してきたものをたった数年でダメにしてしまったのです。これに気づいた時はとんでもないことをしてしまった、と反省すると同時に、自然と向き合う難しさ、怖さを身をもって知りましたね。

安藤 収量重視だった大島さんが、その真逆とも言える有機農法に興味を持ったきっかけは何だったのですか?

大島 昭和58年、アメリカに農業研修に行ったことが大きな転機となりました。カリフォルニアの農業はスケールが段違いで、7000ヘクタール(1ヘクタール=100メートル×100メートル)もの農地にセスナで種をばら撒くというスタイル。気候と土壌に恵まれ、ほとんど農薬や肥料はいらない。広大な土地の利点を活かした、これぞ効率重視の農法でした。逆に日本の高温多湿な気候は、病気や害虫の発生が多いんですよ。昭和48年に減反政策が始まり、米の輸入なども始まっていましたが、魚沼で10俵とか12俵とか言っているレベルでは、コスト競争しても到底太刀打ちできないぞ、と思いました。

 では、味はどうなのかと、アメリカで育てられている米を持ち帰り、町や農協の人たちを集めて試食会を開きました。うちの米と食べ比べてみた結果、票は何と半々! つまり、味も同レベルだと。これではどうやっても勝ち目はありません。

 そこで考えたのは、その土地土地に合った農法があるのではないかということ。つまり、日本古来の農業、原点に立ち返るべきだと思ったんです。

 当時は「有機」を謳う人は少ない中で、徐々に失った地力(ちりょく)を田んぼにつけるために、有機を取り入れていきました。当時、「江花有機微生物農法」という、化学肥料は一切使わない微生物農法を勉強しながら、有機栽培の方法を独自に模索していました。ちなみに、一度農薬を使った土地で、有機農法をやるためには3年の移行期間が必要。でもその後、1年経っても、2年経っても米は美味しくならない。実際に、地力や地味(ちみ)が表れてくるためには、10年は経たないとダメですね。

 平成元年頃、本格的に有機栽培による米作りを開始。当時は有機JASというもの自体がなく、認証も何もなかったのですけどね。そして平成3年、株式会社ごはんを設立しました。