長く地域に愛される店作りをモットーに、東三河で13店舗の飲食店を展開する有限会社 GG INTERNATIONAL。しかも、そのほとんどが地域初の業態というから驚きだ。これまで地方にはなかった様々な業態を根付かせる方法とは。代表取締役 園田孝寛に、叩き上げブランディングプロデューサー安藤竜二が迫る。

安藤竜二 (以下安藤) GG INTERNATIONALさんの創業の歴史を教えていただけますか。

園田孝寛(以下園田) 私は長野県に生まれ育ち、大学進学とともに豊橋へ引っ越して来ました。飲食店でアルバイトをしていたのですが、1年ほど働いた頃、お店を拡張するかたちで新店舗をオープンすることになり、当時最先端の内装を手掛けていたMYU PLANNINIGさんが店舗を作っていく様子をずっと近くで見ていました。そのお店は、靴を脱いで店内に入り、バーカウンターでカクテルを飲むダイニングバーのような業態で、当時の豊橋にはないお店でした。
 そのようなお店を自分で作りたいと大学4年生で決意し、一緒にアルバイトをしていた仲間たちと一緒に、自分たちが行きたいお店。今までにないお店というコンセプトの元、1999年10月1日に50坪60席のダイニングバー『GRIGRI』をオープンしました。22歳の時でした。
        
安藤 22歳で自分の店を持つことはすごいです。当時の豊橋にはないお店で最初から上手く行きましたか。

園田 それが、オープン当初からお客様が入り、有り難いことに右肩上がりで伸び続けました。ただその頃の私の目的は、お金を稼ぐことではなく、東京にあるような感度の高い洗練されたお店を豊橋にも作ることでした。

安藤 お店が繁盛する中、2002年の5月に2店舗目『月とうさぎ』をオープンされます。どうして新店舗をオープンされたのですか。

園田 仲間たちと始めた『GRIGRI』で、私はオーナー兼バーテンダーとして勤務していました。店も好調だったのですが、自分の力を試したい、イチからお店作りに挑戦したい気持ちが強くなり、ひたすら自分に足りない部分を勉強しました。そして、メニュー開発から店舗の内装まで、全てセルフプロデュースした『月とうさぎ』を、豊橋市内からちょっと離れた二川駅の駅前にオープンしたのです。その店で私はオーナーでもありましたが、自ら厨房にも立っていました。そして、こちらも多くのお客様が来てくださったのです。

安藤 挑戦は成功したわけですね。そして4店舗目『炭火すみのかほり』は焼肉屋さん。ここで業態は変わりますが、何か転機がありましたか。

園田 『炭火すみのかほり』をオープンする少し前は、郊外展開していた大手焼肉チェーン店さんが名古屋市内に続々と進出する業界の転換期でした。もともと焼肉業界に興味のあった私は、その動きに刺激を受けました。そして、東京や名古屋で出会ったインテリアデザイナーの手掛けたカウンター型焼肉店を参考に、「デートで使える焼肉店」として差別化を図り、豊橋にオープンしたのです。こちらも繁盛していたのですが、程なくして葛藤も生まれました。焼肉の奥深さに気付かされたのです。それからは試行錯誤の連続でした。肉の仕入れやカット、焼き方から温度管理、さらにはタレの作成まで毎日研究を重ねる日々。例えば、タレは和牛と輸入肉では合う味付けが異なるため、それぞれでタレも開発しました。この時に培ったノウハウが、その後の焼肉店に活かされています。そして、ここが私の焼肉人生の始まりでもあります。

安藤 その経験が『シャトーブリアン芯』さんへ繋がっているわけですね。その後も新たな業態を展開されたのでしょうか。

園田 今後成長していくために、飲食業のビジネス展開を考えるようになりました。チェーン店のパッケージを作り、アルバイトで回せる店づくりを考え、2006年8月にもつ鍋業態の『お江戸 本店』、同年10月に『お江戸 HANARE』をオープン。どんどん展開していく予定だったのですが、3店舗目のオープンはしませんでした。私のやりたいことはこれではないと思ったからです。やはり、豊橋にまだない、感度が高く洗練されたお店を作りたい気持ちの方が大きかったのです。

安藤 そのようなお店をどのようにして知るのでしょうか。

園田 私は、もともと自分を成長させることをとことん追求する性格で、学び続けるのが大好きでした。常に最先端の現場を見たい、感じたいと思っていましたので、当時から東京に留まらず時には海外へも足を運んでいました。行く先々の街で感度の高いお店に出会い、感化され、地元にもこのようなお店があったら楽しいだろうなとの思いから、新しい業態の開発を行っています。アンテナを高く張り、自分も意識を高く持つことで、感度の高い店づくりができると考えているからです。